証券アナリスト=三浦毅司(日本知財総合研究所)
世界保健機関(WHO)は5月19日、新型コロナウイルスのワクチンを開発した企業の特許権に制限を掛け、安く供給することへの協調を目指す決議を採択した。新興国の感染防止が狙いだ。この決議そのものに強制力はないものの、過去を振り返ると抗HIV薬で特許権を制限する強制実施権が新興国で実施されている。
日本では例がない強制実施権
一般に特許技術の使用には特許権者の承諾が必要だ。協議が整わない場合、日本では利用を希望する者が特許庁長官の裁定を求め、認められれば特許を利用できる。これが「強制実施権」とよばれるもので、発明の不実施(特許法第83条)、特許の利用関係(同第92条)、公共の利益(同第93条)の3つが対象となっている。
■強制実施権の対象
出所:特許法に基づき日本知財総合研究所作成
ただし実際に裁定まで行った例は我々が知る限り無い。特に第93条の公共の利益に関する強制実施権の適用は慎重にすべきだとされてきた。実は1959年まで、軍事上の機密技術に関し、政府が特許権の制限や収容、特許の取消を行うことができた。国民の財産権を保障するという観点から1959年に改正された特許法で、政府による強権発動の規定は削除された。まず両者で協議し、整わないときは当事者からの裁定請求という流れを定めたという経緯がある。
海外では様相が異なる。アジアや南米、アフリカなどの新興国では欧米の巨大製薬会社が抗HIV薬を完成させた2000年代前半、強制実施権の適用が相次いだ。自国の患者が爆発的に増える中、メガファーマが提示するライセンス料では治療薬を安価で大量に供給できない。こうした事情から特許権を制限する事例が相次いだ。
■新興国の主な強制実施権実施例
出所:各種資料により日本知財総合研究所作成
こうした動きが今回の新型コロナウイルスに対して再発することを欧米の製薬会社は懸念している。特許は属地主義で認められるので、当該国が強制実施権を行使すると、止めることは困難である。
開発費の回収困難で対抗措置
多額の開発費を回収するための担保となる特許が制限されるとなれば、ビジネスモデルそのものが崩壊する。製薬会社は対抗措置として強制実施権を使用した国での新薬の生産・販売を取りやめるだろう。その国では優れた新薬が承認されなくなり、最先端の医療技術の恩恵を受けにくくなる。
新薬開発に係る膨大な開発費を回収する担保となる特許と、世界的な医療福祉の充実。新型コロナの世界規模の蔓延により、この2点を両立できる枠組みの必要性が浮き彫りになっている。(2020年5月28日)
日本知財総合研究所 (三浦毅司 [email protected] 電話080-1335-9189)
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