【QUICK Market Eyes 池谷 信久】日銀の黒田東彦総裁は8日に任期を迎え、9日から経済学者で元日銀審議委員の植田和男氏が新しい総裁に就任する。市場の注目は新体制の下で、黒田総裁が10年間続けた異次元の金融緩和策をどのように評価し、金融政策の正常化を進めるかだろう。
黒田総裁にとって最後の金融政策決定会合となった3月10日の記者会見では、10年間続いた異次元緩和の評価についての質問が相次いだ。効果として黒田氏は「経済・物価を押し上げ、物価が持続的に下落するという意味でのデフレではなくなった」「女性や高齢者を中心に400万人を超える雇用の増加がみられたほか、若年層の雇用環境も大幅に改善した」「ベアが復活し、雇用者報酬も増加した」を挙げた。
確かに、黒田総裁にとって最初の2013年4月の金融政策決定会合で導入された「量的・質的金融緩和政策」は、「異次元緩和」「黒田バズーカ」とも称されるなどインパクトは絶大だった。長期金利の低下に加え、株高・円安をもたらし、日本経済の回復に寄与した。ただ、これらは「米国経済の回復」という外部要因の影響も大きい。米株式相場は11年後半に底入れし、13年には上昇基調が鮮明になった。外為市場で円安・ドル高が進んだのも、日本の要因だけでないことは明らかだろう。
女性や高齢者を中心とした「雇用の増加」を金融緩和の効果とするのは、市場参加者の間でも疑問視されている。もちろん金融緩和が景気回復を後押しし、企業が採用を増やした面はある。しかし、少子化の影響で企業が人材確保を急ぎ始めたことや、「高齢者雇用の促進」「女性の活躍推進」など、政府の対策が主要因との指摘は多い。景気回復やデフレ脱却を異次元緩和の功績とするのは、ある程度割り引いてみる必要がありそうだ。
日銀は13年4月の金融政策決定会合で「2%の物価安定の目標を、2年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早期に実現する」ことを目指し「量的・質的金融緩和」の導入を決めた。会合後の記者会見で黒田氏は「戦力の逐次投入をせず、現時点で必要な政策をすべて講じた」として、目標達成に自信を見せていた。しかし、14年の消費増税の影響を除くと、22年までCPIが2%を上回ることはなかった。足元の物価上昇に関しても一時的であり、2%の物価安定目標を持続的・安定的な形で実現するのには、まだ時間がかかるとしている。
黒田氏は10年間の任期中に2%の物価目標が達成できなかった理由について、長きにわたるデフレの経験から「賃金や物価が上がらないことを前提としたノルム(社会通念)」が根強く残っているためだと述べている。一方で、労働需給の面では賃金が上がりやすい状況になりつつあり「今後も金融緩和を継続することで、時間がかかるとしても賃金上昇を伴う形で物価目標を実現することは可能だ」と述べた。また、22年4月27~28日に開いた金融政策決定会合の議事要旨をみると「供給ショックを契機とした今回の物価上昇により、物価・賃金のノルムがどう変わるかに着目している」との発言があった。
これらを踏まえると日銀は「何らかの理由で物価や賃金上昇が起これば、大規模な金融緩和が支援材料となり、その後は安定的な物価上昇が期待できる」との考えで金融緩和を続けていたと受け取ることができる。複数のエコノミストからは「異次元緩和の最大の功績は、金融緩和で2%の物価目標を達成できないことを明らかにしたことだ」との声も聞かれる。
異次元緩和の副作用に関して黒田氏は「副作用よりも経済に対するプラスの効果がはるかに大きかった」と評価し「副作用が非常に累積しているとか大きくなっているとか思っていない」と述べている。さらに「国債と上場投資信託(ETF)の大量購入を反省しているか?」との問いには「何の反省もないし、負の遺産だとも思っていない」と断言した。
次期総裁の最有力候補とみられていた雨宮正佳前副総裁は「次期体制は長い金融緩和の点検と修正が求められる。(自分に)客観的に公正な見直し作業ができるとは思えない」との思いから、固辞を貫いたと伝わっている。旧体制の下では、すでに異次元緩和の功罪を客観的に判断できていなかった可能性もある。
そこで期待されているのが新体制の下での金融政策の修正だろう。しかし、正副総裁以外のメンバーは変わらず、副総裁に就任した内田真一氏も企画担当の理事として、これまでの金融政策に関与してきた。異次元緩和はアベノミクスに組み込まれた政策であり、政府との関係も踏まえると、大胆な政策転換は困難とみられている。
政策手段としてのイールドカーブ・コントロール(YCC)には、長期金利のターゲットを上方修正する際、事前に市場に織り込ませるのが難しいという大きな欠陥がある。事前に引き上げ予想が広まると、その時点で長期金利に猛烈な上昇圧力がかかるためだ。金融システム不安や米景気後退懸念で海外発の金利上昇圧力が弱まっている現状であれば、YCCを撤廃しても長期金利があまり上昇しない可能性がある。しかし、再び金利上昇圧力が強まれば、金利急騰は避けられず、株式市場や外為市場にも大きな影響を与えることになるだろう。逆に世界景気が悪化した状況で修正すれば、緩和縮小と受け取られ日銀批判が強まる可能性もある。
マイナス金利政策の解除に関しては、YCC以上にマーケットや経済に対するインパクトが大きく、解除が見通せる状況にはない。また、国債やETFの大量購入により、日銀は発行済み国債の過半数を保有し、多くの上場企業の主要株主になる異常事態にあるが、是正には相当の時間を要するだろう。金融政策正常化の道のりは遠くて険しい。