【QUICK解説委員長 木村貴】「インフレ」とは学校で誰もが教わり、メディアでもよく目にする経済の基本用語だ。日銀が2%の「インフレ目標」を掲げるように、インフレとは「全体的な物価水準が持続的に上昇する状態」とされる。要するに物価の上昇だ。けれども、そもそもなぜ、インフレという言葉が「物価の上昇」を意味するのだろうか。
本来の意味は「膨らませる」
英語のinflation(インフレーション)という名詞の元になった動詞「inflate」(インフレート)をオンライン英和辞典で調べると、最初の意味に「(空気・ガスなどで)膨らませる、膨張させる」とある。また、インターネットでinflateを画像検索してみると、風船を膨らませている写真がぞろぞろ出てくる。これがinflateという言葉の本来のイメージなのだ。
けれども、「膨らませる」という語がどうして「物価の上昇」を意味するのだろう。「膨張」と「上昇」は似ているようで、全然別の言葉だ。物価は「上昇する」のであって、「物価が膨張する」はおかしい。
じつは経済学の世界でも、かつてinflationは文字どおり「膨張」の意味で使われていた。何が膨張するのか。世の中に出回るお金の量、経済用語でいう通貨供給量(マネーサプライ)だ。
手持ちのお金の量が増えれば、高い代金を払ってでもほしい商品を買おうとする人が増えるから、商品の値段は上昇する。つまり通貨量の膨張が原因で、物価の上昇はその結果だ。インフレという言葉はもともと通貨量の膨張という原因を指したのに、いつの間にか、その結果にすぎない物価上昇を意味する言葉に変わってしまったのだ。
「言葉の意味の移り変わりは、よくある話。いちいち目くじらを立てなくても」と思うかもしれない。だが、この変化には実害がある。
以前は政府・中央銀行が通貨量を膨張させると、それだけで不当な行為として非難を浴びた。お金全体の量が増えると、人それぞれが保有するお金の価値が薄まってしまうからだ。
商品の供給量が変わらないか、減っているときは、他の条件に変化がない限り、お金の量が増えると物価が高くなる。だからお金の価値が薄まったことに気づきやすい。人の目が欺かれやすいのは、生産活動が盛んで、商品の量が増えている時期だ。お金の量が多少増えても物価は上昇せず、影響が目に見えにくい。だが実際にはお金の所有者は見えない損失を被っている。本来なら商品の量が増えたおかげで物価が下がり、同じ金額で買える商品が増える、つまり、保有するお金の価値が高まっていたはずだからだ。
失われた真のインフレ批判
インフレという言葉の指す内容がすり替えられるにつれ、それまで通貨量の膨張そのものに向けられていたインフレ批判が、その結果にすぎない物価上昇に向かうようになってしまった。この違いは大きい。なぜなら「物価上昇さえ招かなければ、通貨量をいくら膨張させても問題ない」という言い逃れの余地が生まれるからだ。
事実、一部の経済学者や評論家が「日本は物の供給能力が余っているので、お金の量を増やしてもインフレにはならない」などと主張しても、そのおかしさに気づく人が少ない。本来はお金の量を増やすことそのものが、インフレなのに。通貨量の膨張を指す言葉が消えると同時に、私たちはそれを批判する発想そのものを失ってしまったのだ。
政府の経済介入を批判するオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、こうした言葉のすり替えが招いた変化について、次のように嘆く。
「これまでインフレーションという語で表わしてきた内容を表せる適当な用語が、もはやなくなってしまった。命名できない政策と闘うことは、不可能である。政治家や著述家が、貨幣の巨額追加発行という便法に疑問をもっても、公衆が、認め理解できるような用語を使うことは、もはや、できなくなっている」(村田稔雄訳)
筆者自身、いつもはインフレという言葉を「物価の上昇」という意味で使ってしまっている。だがこうした不正確な言葉遣いが広まったことで、ミーゼスがいうように、人々は通貨量の膨張が問題だと思わなくなってしまった。真のインフレ批判が失われたのだ。その結果、物価が実際に上昇を始めるまで、通貨膨張政策に対する批判がなされず、批判が始まるころには、もはや手遅れということになる。
孔子が『論語』で「必ずや名を正さんか」と述べたとおり、「名を正す」(言葉の混乱を正す)ことをおろそかにすると、国の政策は乱れるのだ。
今の株価はバブルか?
最初に述べたように、日銀は2%のインフレ(物価上昇)目標を掲げる。しかし、通貨供給量の伸びではなく、物価上昇率を目標とすることで、通貨量が膨張し、経済に悪影響を及ぼしている。巨額の国債購入などによる異次元の金融緩和によって、政治家や国民は国債の発行コストを意識しなくなり、財政規律を緩めた。大量発行された円の信認が低下し、ここにきて歴史的な円安を招いている。
さわかみ投信創業者の澤上篤人氏は、著書『暴落ドミノ』で、これまで日本や米国など先進国を中心に、カネ余りに支えられた「金融緩和バブル」が膨らんできたが、そうした「張りボテ経済はもう限界」と警鐘を鳴らす。世界的なインフレ圧力や金利上昇という「経済合理性のブレーキ」がかかってきたからだ。株式や債券など「金融マーケット全般での暴落は、もう避けようがない」という。
市場関係者の中には、「日本株の株価収益率(PER)は1980年代のバブル期には60倍を超えていたが、今は16倍台。バブルとは言えない」という見方もある。これについて澤上氏に取材したところ、「今のPER自体、金融緩和によってかさ上げされている」という。
たしかに、PERの水準は市場環境によって変化するから、16倍なら割安だという保証はない。単純な比較はできないものの、1920年代の米国では10倍程度が平均とされていた。
ただし、もし暴落が起こったとしても、それが世界の終わりというわけではない。むしろ良い銘柄を安く買いたいと狙っている投資家にとっては、格好の買い場となる。個人の関心を集める新しいNISA(少額投資非課税制度)にしても、高い株価で買って値下がりしたら、値上がり益に対する非課税の恩恵を受けられない。「新NISAは積極的に活用すべきだが、今ではない。金融緩和バブルの崩壊を待って、おもむろに買い始めるのがいい」と澤上氏はアドバイスする。
インフレという言葉の混乱は、通貨量の膨張に対する警戒心を弱め、経済にひずみをもたらす。そうした中で、マネー膨張という真のインフレの危うさを理解していれば、市場の変調に備えることができ、暴落が起こっても賢明に行動できる。