7月中旬発表の6月分の米消費者物価指数(CPI)が前年同月比で+9.1%、前月比で+1.3%の大幅な伸びとなり、「CPIショック」と報道されました。
そのように報道されると、マーケットの中心テーマが「景気後退」から、「インフレ」や「金利上昇」に戻るように思えますが、マーケットはあまり変わっていないように思えます。
金融市場の利上げ織り込みを見ると、引き続き、来年早々の「利上げ打ち止め」と「利下げ開始」が織り込まれています。
これを言い換えると、A.「もうすでに景気後退は見えています」となりますし、B.「もうすでに金融緩和は見えています」となります。皆さんには、この両方が見えていらっしゃるでしょうか。
「100年に一度」と呼ばれた2つのできごと、すなわち、リーマン・ショックであれ、コロナ・ショックであれ、「金融緩和は資産価格にとってポジティブな展開」でした。
「噂で買って、事実で売る」という言葉があります。逆のポジションとして、「噂で売って、事実で買い戻す」なら、景気後退という「噂」で調整してきたマーケットは、「事実」で転換することになります。
日本の個人投資家のみなさまは、すでに景気後退に向けて「準備万端」なはずでしょうから(→資産の分散)、次の展開への動きを考えるタイミングでしょう(→時間の分散;時間をかけた買い付け)。
岬めぐり
先週、山本コウタローさんが亡くなったことが公表されました。♪岬めぐり♪はリコーダーからの歌いだしがとても素敵な曲です。
コウタローさんは、拓郎とつながりが深い人で、例えば、彼の卒業論文は『たくろう・スーパースター』という約350枚の論文であり、『誰も知らなかったよしだ拓郎』(1974年)という本も出しています。後者は、拓郎の広島の実家にお母さんを訪ねるなど、拓郎本人を含め関係者への取材を丹念に行って書き上げた貴重な書籍です。ほかにも、(いまでは伝説となっている)拓郎とかぐや姫が中心となった1975年のつま恋での野外オールナイト・コンサートでは共演を果たし、記録映画のインタビュアーも務めています。
当時を振り返ると、1970年に、日米安全保障条約が自動延長され、学生運動は次第に下火になっていきます。そこに登場するのが吉田拓郎で、彼は、目標を失った若者のこころを解放する歌を作っていきます。それまでは、反戦歌を中心に「わたしたち」が主語でしたが、「わたし」が主語になる歌を、拓郎や彼の後に続いた多くのシンガー・ソングライターたちが作っていきました。
『誰も知らなかったよしだ拓郎』(1974年)はこう結ばれます。
「さて、冬の訪れと共に一段と不況風も厳しくなりはじめた今日この頃。実際、明日はどうなっているかわからないといった前途多難を思わせる時代ではあるが、拓郎はきっとこれまで通り、自分のペースでやりたいことをやっていくにちがいない。皆さんもどうか自分を大切にして、一度しかない青春を謳歌してもらいたいものである」
この不況こそ、第1次オイルショックによる不況でした。そして、現在も、戦争を遂行している一方の当事者が日本を艦船で周回するなど、「明日はどうなっているかわからない前途多難を思わせる時代」と言えるでしょう。
さて、今日は前回の続きで、1970年代当時の日本をごく簡単に振り返ってみます。
1970年代当時の「公害問題(環境)→ニクソン・ショック(貨幣発行)→オイルショック(エネルギー危機)」は、現在の「気候変動問題→パンデミック→ロシア・ウクライナ戦争」と似ているように思えます。1970年代当時の日本の危機を乗り越えたのは、日本の産業技術でした。
1970年代の日本:公害とオイルショックが成長の機会を提供した
20世紀のほとんどの期間は「工業技術(industrial technology)の時代」だったと言えるでしょう。問題の多くは「モノの不足」に関するものであり、新たな問題は、新たな工業技術によって解決されました。
戦後、生産性が高まって豊かになり、1960年代に入ると、日本を含む工業国では公害・環境の問題が生じました。
1971年にはニクソン大統領(当時)が訪中を発表し、その1ヵ月後に「金とドルの兌換停止」が発表されます。1973年には第1次オイルショックが起き、日本は1974年度に戦後初めてとなるマイナス成長に陥ります。
戦後、オイルショックが起きるまで、日本を含む工業国は安価なエネルギー資源に依存して成長してきました。しかし、公害問題を含め、生産要素や製品の社会的・経済的なコストを気にせずに投入・生産、そして消費できる時代は終わりました。
この戦後最大の危機(当時)を乗り越えたのも、工業技術でした。
例えば、環境面では、エンジンの燃焼効率改善や低騒音化、触媒の使用による汚染物質の酸化・還元、重油脱硫、集じんや排煙脱硝・脱硫、排水処理などの技術の向上が挙げられます。
また、『マイクロ・エレクトロニクス革命(ME革命)』によって、製造機械の制御に多くの半導体が利用されて自動化が進み、産業用ロボットや数値制御(NC)工作機械、マシニングセンターなどに応用されました。
合わせて、代替エネルギーとして原子力開発が進められ、重電メーカーは原子力発電の分野で省エネの技術を蓄積し、また、重電設備を制御するシステム開発を進めました。
危機をきっかけとして、環境や省エネ、省力化・自動化の技術を蓄えた日本の製造業は、1980年代に、自動車や半導体をはじめ工業製品の輸出で(貿易摩擦が生じるほどに)世界を席巻しました。
当時の日本の技術とは、自動車やエレクトロニクス製品といった「上物」というよりも、その中に隠れている環境や省エネ、省力化の技術でした。例えば、ヘッドフォンステレオの中核は、安価かつ長時間、移動しながらの使用を可能にするリチウムイオン二次電池であったわけです。
国家の危機を、皆が認識し、コストを共有した
加えて言えば、1979年の第2次オイルショックを他国に比べて小さな痛みで乗り越え、80年代の飛躍を可能にしたのは、日本企業の技術力だけではありません。
オイルショックがもたらした不況やコスト高を受け、企業は、遊休資産の売却、在庫率の引き下げ、配置転換や一時帰休、臨時雇用の増加といった雇用調整など、『減量経営』と呼ばれた厳しい合理化を進めていきます。また、企業は、自主的に業務や作業の改善を行う『QCサークル活動』を奨励し、被雇用者たちは(自分たちの雇用を守るため)これに積極的に取り組みました。こうした中で、ジャストインタイム方式や、かんばん方式などが拡大していきました。
加えて、欧米諸国の労働組合がインフレ分の大幅な賃上げを勝ち取る一方、日本では、賃金の伸びを生産性の伸びの範囲内に収める労使間の協調によって、価格・コスト面での国際優位性が生まれました。言い換えれば、国民の省エネ意識を含め、戦後最大の危機は、そのコストが社会全体で認識・共有されました。
しかし、(少なくとも先進国においては)「モノを巡る課題」の多くは解決され、工業技術の時代は終わり、情報技術の時代を迎えます。それは、ディスインフレの時代でもありました。社会の課題がインターネットやプラットフォームなど「見えない課題」に姿を変えると、「イノベーションのジレンマ」や他国によるキャッチアップと共に、日本企業の時代も終わりました。
(最終回「モノの課題への回帰は日本にとっての好機」に続きます)
参考文献:
- 山本コウタロー著『誰も知らなかったよしだ拓郎』(ペップ出版、八曜社)
- 歴史学研究会編『日本 同時代史⑤ 転換期の世界と日本』(青木書店)
- 橘川武郎・平野創・板垣暁編『日本の産業と企業–発展のダイナミズムをとらえる』(有斐閣アルマ)
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