【QUICK解説委員長 木村貴】古代ローマ帝国は、地中海を中心とする広大な地域を数百年にわたって支配し、空前の繁栄を享受した。だがやがて衰退し、最後は滅亡する。ローマはなぜ滅びたのだろう。
初期のローマ帝国が繫栄した秘訣は、「小さな政府」にあった。人口6000万人に対し、官僚はたかだか300人だったとされる(新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』)。地方には大幅な自治を認めた。
だがその後、小さな政府の原則を踏み外し、国家の事業を過度に拡大したとき、ローマは衰亡に向かった。蛮族の侵入によって滅んだといわれるが、実際には軍事・経済政策の誤りによる自滅だった。
貨幣劣化でハイパーインフレに
ローマ帝国の版図は、「五賢帝」の1人であるトラヤヌス帝(在位98〜117年)の治世に最大となる。このとき、すでに衰退の影は忍び寄っていた。トラヤヌスは即位すると、大規模な遠征を志す。治世19年間の間に、ダキア(現ルーマニア)、メソポタミア、アルメニアなどを併合した。
栄光の陰で、本国を遠く離れた地で長年行う戦争には多大な物的・人的資源の動員を必要とした。しかもトラヤヌスはダキア戦争後、国民に恩賜品を与え、兵士たちに贈与金を給し、競技やその他の見世物を催すために、巨額の金を出した。属州に都市を築き、退役兵に植民活動をさせた。さらに首都や属州における豪勢な建築に充てる出費も重い負担となった。
その後皇帝たちは、膨張した財政を賄うため、犯罪的ともいえる増収策を重ねていく。劣悪な品質の貨幣鋳造だ。
デナリウスと呼ばれる銀貨の場合、初代皇帝アウグストゥスの時代には95%を超える銀含有率だったが、3世紀中ごろには3%以下となり、銀メッキをほどこした青銅貨の「銀貨」さえ登場する。このすさまじい品質劣化は、たとえば1枚の旧銀貨を溶かして純度を下げ、2枚の銀貨を新たに鋳造するといった増収策によるものであり、皇帝が代わるたびに同様のことが繰り返された。その結果、短期間に何十倍というインフレが起こり、ローマの経済を疲弊させた(青柳正規『ローマ帝国』)。
通貨を保有する市民からすれば、通貨の価値が落ちる分、見えない形で政府から税金を取られることになる。現代風にいえば「インフレ税」だ。
経済インフォグラフィックサイトのビジュアル・キャピタリストは、ローマ帝国の貨幣変造について「他の要因とともに、ハイパーインフレ、経済の分裂、貿易の局所化、重税、財政危機を招き、ローマは機能不全に陥った」と解説している。
物価統制で経済が混乱
インフレによる経済・社会の混乱がさらに広がったのは、ディオクレティアヌス帝(在位284〜305年)の時代だ。ディオクレティアヌスは、公共事業や官僚制拡大の費用を増税では賄いきれず、前任者たちと同じく、通貨の減価に踏み切った。金貨や銀貨の金属含有量を減らし、価値は以前と同じだとして再発行したのだ。
結果はいうまでもない。この法定通貨は実際に含まれている金や銀が少ないため、商人たちは割安な値でしか受け入れなかった。つまり、すぐに市場で切り下げられたのである。人々は、金銀の含有量がまだ高かった良質な金貨や銀貨を買いだめし、市場取引では質の悪い金貨や銀貨を使うようになった。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則そのままの現象だ。
これは1枚1枚の硬貨で買える商品の量が以前より少なくなることを意味し、また逆に、以前と同じ量の商品と引き換えに、より多くの硬貨を渡さなければならなくなることを意味した。政府が質の悪い硬貨を発行すればするほど、物価高はひどくなった。政府は人々に対して、表面に刻印された高い価値で、質の悪い硬貨を受け入れるよう義務づけたが、効果は薄かった。
ディオクレティアヌスはまた、物納制度をつくった。つまりローマ政府は、自分たちの発行した質の悪い貨幣を、税金の支払いとして受け取らないようにしたのだ。ローマの納税者は、徴税時に政府が求める商品を確実に生産するため、土地や職業に縛られるようになった。ローマの経済構造は硬直化していった。
ディオクレティアヌスは悪政の上塗りをした。301年、最高価格令を発布したのだ。物やサービスの価格に上限を定め、物価を抑え込もうとした。穀物、牛肉、卵、衣料品、その他品物の価格を定め、その生産に従事する人々の賃金も決めた。これらの価格と賃金の統制に違反した場合は死刑だった。
しかし結果は失敗だった。安い公定価格で売っては利益が出ないので、生産者や商人が商品を市場に出さなくなってしまったからである。社会は品不足に陥った。皇帝は売り惜しみを禁じたが、効果はなかった。
公式の市場に出さない代わりに、闇市場で売る業者はいた。当然、公定価格を上回る値段だ。物資を求める群衆が押しかけて店を打ち壊し、業者が死亡することもあったという。
結局、発布から4年後、ディオクレティアヌスが退位すると、最高価格令は事実上の空文と化す。いたずらに経済・社会を混乱させただけに終わった。
ローマ帝国の人々は、重税とインフレの進行によって金持ちも貧乏人も経済的な体力を弱め、自給自足のような防衛的な生活様式を選ぶようになった。市場に流通する商品が減少し、経済が縮小再生産の循環過程に入ってしまった。このため皇帝たちはさらに税金の増額をはかったため、金持ちや資産家は都市を捨てて田園の別荘にこもるようになり、行政自体が機能停止の状態になった。閉塞感の強い社会状況は人々の気持ちにも大きく作用し、わずかな天候の悪化や個人的不幸に対しても過剰な反応を示し、社会の活力を削いでいった(青柳前掲書)。
経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、ローマ帝国の崩壊について「(政府が経済に介入する)干渉主義政策(略)は、必然的に社会の実体を分裂させ破壊するのが常であるから、強力な帝国を崩壊させてしまった」と分析する。
97%失われたドルの価値
ローマ帝国が繁栄の絶頂から衰退に転じた様子は、現代の巨大な「帝国」とだぶって見える。米国だ。
今はローマ時代と違い、金貨や銀貨がお金として鋳造されることはない。その代わり、中央銀行の米連邦準備理事会(FRB)を通じて自由にお金をつくるという、もっと手っ取り早い方法がある。それをフル活用した結果、お金の量が急増し、価値は急速に薄まった。消費者物価指数をもとに計算すると、FRBが設立された1913年から現在までの111年間で、ドルの価値(購買力)は97%失われた。銀の含有率が3%に下がったローマ帝国のお金の劣化を思わせる。
新たにつくられたお金の多くは、米国債の購入を通じて、事実上、政府の財政赤字の穴埋めに充てられてきた。日銀が国債の半分以上を保有する日本ほどではないものの、財政規律は緩みっぱなしだ。ここ数年は新型コロナウイルスへの対応に加え、社会保障費の拡大や、ウクライナ、台湾、イスラエル向けの軍事支援などで、財政は一段と悪化している。
米国が世界中で軍事介入を繰り返し、影響力を拡大する姿勢を、帝国主義だと批判する声は少なくない。一方、財源を無視した福祉政策の過剰な拡大や学生ローンの免除は、市民の歓心を買おうとしたローマ皇帝の大盤振る舞いを思わせる。
ハリス氏、経済政策案を公表 住宅や食品の価格を抑制https://t.co/WAEsgrGFQA
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) August 16, 2024
米民主党の大統領候補であるハリス副大統領は選挙公約となる経済政策案で、住宅や食品の価格抑制を打ち出した。ローマ帝国の最高価格令にそっくりだ。対抗馬である共和党のトランプ前大統領は「コミュニスト(共産主義者)の価格統制だ」と非難したが、FRBの決定に「大統領が発言権を持つべきだ」と主張するなど、お金を増やすインフレ政策に頼る点は他の政治家と変わらない。
ドルに対する市場の不信感を映し、金価格は1トロイオンス2500ドルを突破し、過去最高値を更新している。現代の巨大帝国である米国が衰亡に向かうとしたら、その原因になるのは外敵ではなく、自身の経済失政が生み出したインフレだろう。ローマの歴史はそれを教えている。
インフレに慄く米国、デフレに向かう中国。両大国の影響免れがたい我が日本の今後について発信よろしくお願いします。