【QUICK解説委員長 木村貴】終戦から半年後の1946年2月16日の夕方、当時の渋沢敬三大蔵大臣(新一万円札の顔、渋沢栄一の孫)はラジオ演説で国民にこう訴えた。
「皆さん、政府はなぜこうした徹底した、見ようによっては乱暴な政策をとらなければならないのでしょうか、それは一口にいえば悪性インフレーションという、国民としての実に始末の悪い、重い重い生命にもかかわるような病気をなおすためのやむを得ない方法なのです」(『昭和財政史——終戦から講和まで』第12巻、旧かな表記などを変更)
渋沢蔵相が発表した「乱暴な政策」とは、預金封鎖と新円切り替えだった。それらは何を意味するのだろう。
無謀な財政、借金踏み倒す
この年、卸売物価上昇率は約433%(物価が前年の約5.3倍)に達していた。その翌年や翌々年も卸売物価は前年比3倍近くに跳ね上がった。ハイパーインフレないしそれに近い高インフレとされる。
終戦直後の激しいインフレの原因の一つになったのは、戦時中の無謀ともいえる財政政策だった。日本政府は日中戦争が始まった1937年の9月から46年2月まで一般会計と別に戦費の調達のための「臨時軍事費特別会計」を設けた。この間、議会での審議はなく決算もなかった。
「戦時国債」の苦い記憶https://t.co/bDcwvR2h0q
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) September 17, 2022
日本経済新聞が伝えるように、日本の戦費調達は世界でも異質だった。まず、公債と借入金に過度な依存をした。予算全体の70%超、特会で80%超にのぼった。米英独は5割程度だった。次に、日銀による国債引き受けだ。1937~45年度に出した新規国債の総額は1300億円ほど。3分の2を日銀が直接引き受けた。戦争の前と後で紙幣流通量を比べると米英独の2~6倍に対し、日本は21倍と圧倒的に多い。
政治・経済の教科書などでは、インフレを「デマンドプル・インフレ」(超過需要が原因となって起こるインフレ)、「コストプッシュ・インフレ」(費用の上昇が価格に転嫁して起こるインフレ)などと分類するが、インフレの根本の原因はただ一つ、お金の発行量が増えることだ。多額の戦時国債を引き受けるために日銀がお金の量を大幅に増やした結果、激しいインフレは必至となった。たとえ戦争に敗れなかったとしても、急激なインフレは避けられなかっただろう。渋沢蔵相のいう悪性インフレーションとは、自然に生じた「病気」ではなく、政府自身が引き起こした不始末だったのである。
日本政府は厳しい財政状況を受け、一定額を超える財産(現預金、株式などの金融資産および宅地、家屋などの不動産)を対象に「財産税」を課した。最低税率は25%で、1500万円超の財産には実に90%も課税され、これにより華族など富裕層の資産はほぼすべて没収された。また、戦時中までに民間企業などが政府に対して納入した物品の代金や、提供したサービスの代金の支払いを、同額の「戦時補償特別税」を課して相殺する形で、丸ごと踏み倒した。
これらの課税に先立ち、預金封鎖と新円切り替えが実施される。渋沢蔵相のラジオ演説は、これらの政策を極秘裏に準備したうえで、実施の直前、国民に対して不意打ちの形で発表したものだった。その狙いについて、日本総合研究所主席研究員の河村小百合氏は「財産税課税のための調査の時間をかせぎつつ、課税資産を国が先に差し押さえるためだった」(『日本銀行 我が国に迫る危機』)とみる。
買った国債が紙切れに
預金封鎖とは、非常時の特例として、一定期間、銀行預金の引き出しを制限あるいは禁止することをいう。終戦直後の日本の場合、5円以上の旧札をすべて銀行などの民間金融機関に預けさせ、預金封鎖したうえで、生活や事業に必要な額だけを新札で引き出せるようにする、というものだった。新円切り替えは、旧円を無価値にすることで、タンス預金を防ぎ、銀行に預金せざるをえないように仕向ける狙いがあった。実際に引き出せる新札は、1カ月につき世帯主が300円、各世帯員が100円までに制限された。
当時日本政府は、預金封鎖の目的としてインフレ対策を強調した。しかし預金封鎖による引き出し制限の間にも、吉田茂政権の石橋湛山蔵相が日銀券増発によるケインズ主義の積極財政を展開したことなどから、インフレは進んだ(杉山伸也『日本経済史』)。1948年7月に預金封鎖が解除されるころまでには、人々の預貯金は実質無価値になった。
市民の受けたダメージは大きい。青森県のある漁師は戦時中、酒もたばこもやらず、こつこつ貯金し続け、「戦争が終わったら、家を建てて暮らそう」と言っていた。だが預金封鎖で財産のほぼすべてを失った。岐阜県のある地主が買った戦時国債は紙くずになった。「国債は勝利の源」「子どもの財産に」といったうたい文句を信じた結果だった(東京新聞・中日新聞経済部編『人びとの戦後経済秘史』)。
戦前の当局は、財政破綻などしないと強気の主張をしながら借金を重ねていた。対米開戦前夜の1941年10月、大政翼賛会は全国の隣組に宣伝読本「戦費と国債」を配った。「国債がこんなに激増して財政が破綻する心配はないか」という問いに対して、次のように国債の安全性を強調している。
「国債がたくさん増えても全部国民が消化する限り、少しも心配は無いのです。国債は国家の借金、つまり国民全体の借金ですが、同時に国民がその貸し手でありますから、国が利子を支払ってもその金が国の外に出て行く訳ではなく国内で広く国民の懐に入っていくのです。(中略)従って相当多額の国債を発行しても、経済の基礎がゆらぐような心配は全然無いのであります」
朝日新聞記者の原真人氏は、著書『日本銀行「失敗の本質」』でこの文章を引用し、「現代の財政拡張論者たちの主張と見まがうほど、よく似ている」と驚く。同感だ。原氏がいうように、リフレ派や財政出動論者たちはしばしば「国債は国民資産でもあり、増えても問題ない」と説明する。しかしそこでは、国債という資産は財政破綻によって紙くずになりうることや、その結果、同じ国民の中で損をする者と得をする者が生じることは無視されている。
誰も言わない歳出削減
敗戦直後の激しいインフレで損をしたのは、預金が無価値になり、購入した国債が紙くずになった一般市民だ。戦争で疲弊したうえ、財産まで失った。一方、最も得をしたのは、人々を無謀な戦争に駆り立てたうえ、戦費で膨らんだ借金を踏み倒した日本政府だ。終戦直後に204%だった公債残高の対国内総生産(GDP)比は急速に縮小し、1950年時点では14%に落ち着いた。わずか数年で、現在の価値にしておよそ1000兆円が縮減した。これを当時の国民が負担したことになる。
財政の改善は、増税よりも、インフレで政府の借金が目減りする「インフレ税」の影響が圧倒的だった。経済学者の小黒一正氏は「膨れ上がった国の借金を減らすには、あらゆる増税でも追いつかず、結局は激しいインフレによるインフレ税に頼らざるを得なかった」(『預金封鎖に備えよ』)と強調する。
現在、政府債務の対GDP比は254%に達し、終戦直後の水準を上回る。当時の戦費に代わって社会保障費が膨れ上がり、国債費とともに現役世代の重い負担となっている。
【号外】自民党新総裁に石破茂氏 決選投票で高市早苗氏破るhttps://t.co/Qx21efm7kV
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) September 27, 2024
石破氏は215票、高市氏は194票でした。10月1日召集の臨時国会で岸田文雄首相の後継として第102代首相に指名される見通しです。#自民党総裁選2024 pic.twitter.com/L3MdTfvb1J
けれども先週終わった自民党総裁選では、新総裁に選ばれた石破茂氏を含め、社会保障費をはじめとする歳出削減や国債依存からの脱却を主張する候補はほとんどいなかった。むしろバラマキ色の強い給付措置を訴える動きが目立った。自民党に先立ち野田佳彦元首相を新代表に選んだ立憲民主党も同様だ。与野党そろって、あまりに危機感が乏しい。
無謀な財政政策のツケという巨大な氷山が目の前に迫っているというのに、日本の政治は針路を変える気配がない。戦後80年を迎える来年以降、新たな「財政敗戦」に直面し、市民が激しいインフレや財産の差し押さえ、増税などで再びその犠牲になる恐れは強まるばかりだ。
「国債増発に対する説明ぶりが大政翼賛会と今のリフレ派が同じ」は目から鱗でした。もっともっと喧伝しましょう。