【QUICK解説委員長 木村貴】錬金術が存在する架空の世界を舞台にした人気アニメ『鋼の錬金術師』のオープニングで、ナレーターがこう語ります。
「何かを得ようと欲すれば、必ず同等の対価を支払うものなり。これすなわち錬金術の基本、等価交換なり」
万能に見える錬金術ですが、いくつか制限があり、その基本となる原理が「等価交換」です。この物語でいう等価交換とは、さきほどのセリフにもあるように、「何かを得ようと欲すれば、必ず同等の対価を支払う」ことを意味します。
具体的には、無から物質を作り出したり、性質の違う物を作り出したりすることはできません。「何かを得るには同等の代価が必要」というこの原理は、登場人物の思想信条にもなっており、物語に深みを与えています。
このアニメの場合は、それでいいのです。おそらく、物理学でいう「質量保存の法則」に近いものをイメージしているのでしょう。
けれども、私たちが等価交換という言葉を日常生活などで使う場合には、気をつけなければなりません。
一番好きな映画を見るには
等価交換は、もともと経済用語です。土地と建物を交換するなど、不動産開発の用語としても使われますが、その場合は問題ありません。
問題なのは、広い意味での経済用語として使われる場合です。オンライン百科事典などでは、等価交換とは「等しい価値を有するものを相互に交換すること」と説明しています。
しかし経済の世界で、価値の等しいものを互いに交換することは、決してありません。つまり、等価交換は存在しないのです。まるで存在するかのような解説がネットなどにあふれていますが、それは誤りです。
意外に思ったでしょうか。でも、これは経済学の基本です。なぜ等価交換は存在しないのか、それがわかれば、経済に対する理解はぐっと深まるでしょう。以下、説明します。
太郎と花子は友人で、どちらも映画ファンです。新作も好きですが、昔の名作も近くの名画座で楽しみます。
昔の日本映画のうち、太郎が今一番見たいのは『七人の侍』で、次に見たいのは『東京物語』です。一方、花子は逆に、一番見たいのは『東京物語』で、次に見たいのは『七人の侍』です。
けれども、太郎は『東京物語』のチケットは持っていますが、一番見たい『七人の侍』のチケットはありません。一方、花子は『七人の侍』のチケットは持っていますが、一番見たい『東京物語』のチケットはありません。
この状況を表で整理すると、こうなります。映画の題名をカッコで囲ってあるのは、その映画のチケットを持っていないことを示します。
太郎 | 花子 |
(七人の侍) | (東京物語) |
東京物語 | 七人の侍 |
太郎と花子は、何か行動を起こすことで、自分の満足度を高めることができるでしょうか。もうおわかりでしょう。持っているチケットを互いに交換すればいいのです。
太郎は『東京物語』のチケットを花子に譲って、代わりに『七人の侍』のチケットをもらいます。花子は『七人の侍』のチケットを太郎に譲って、代わりに『東京物語』のチケットをもらいます。この取引が成立すれば、太郎も花子も、それぞれ一番見たい映画を見ることができます。
成立する条件
ただし、この例に限らず、取引が成立するためには、条件があります。それは、取引する商品の価値が高いか低いかについて、相手とは異なる見方をしていることです。
たとえば、映画のチケットの例で、もし先ほどとは違い、太郎も花子も、一番見たいのは『東京物語』で、次が『七人の侍』だったら、どうなるでしょう。
太郎 | 花子 |
東京物語 | (東京物語) |
(七人の侍) | 七人の侍 |
太郎は『東京物語』のチケットを持っていますが、それを花子に譲ろうとは思いません。自分で使って映画を見るでしょう。花子は『七人の侍』のチケットを持っていますが、それと引き換えに太郎から『東京物語』のチケットをもらうことはできません。
こうなってしまうのは、2本の映画でどちらの価値が高いかという順序について、太郎と花子が同じ判断をしているからです。
最初の例では、一番見たい映画、つまり、自分にとってより価値の高い映画は、太郎が『七人の侍』、花子が『東京物語』と、異なっていました。だから交換が成立しました。しかし次の例では、2人とも一番見たいのは『東京物語』で、同じでした。だから互いに違うチケットを持っていても、交換が成り立たなかったのです。
商品の価値を決めるもの
今説明したように、商品の価値について相手と異なる見方をしていなければ、交換は成り立ちません。この事実から導かれる、もう一つの重要な事実があります。それは、取引とは、価値が同じもの同士を交換することではない、つまり等価交換ではない、ということです。
自発的な交換が起こるためには、交換をする双方が、受け取る商品の価値は、手放す商品の価値よりも高いと考えなければなりません。そうでなければ、そもそも交換は起こりません。交換によって、自分の満足度を高める、つまり得をすることができないからです。
わざわざ手間をかけて、同じ価値のものを手に入れても、前よりも満足度は高まりません。だから経済の世界に、等価交換は存在しないのです。
さらにもう一つ、重要な事実は、商品の価値は誰にとっても同じではなく、人によって異なる場合があるということです。
映画チケットの交換が成立したケースで、太郎は『七人の侍』のほうが『東京物語』よりも価値が高いと考え、逆に、花子は『東京物語』のほうが『七人の侍』よりも価値が高いと考えました。このように、同じ商品でも、人によって価値は変わる可能性があります。言い換えれば、商品の価値の大きさは、個人個人の心(主観)によって決まるのです。
価値観が人によって異なるなんて、当たり前に思えるかもしれません。けれども、その事実が経済にとって持つ意味を、古典派と呼ばれる初期の経済学者は十分理解していませんでした。
近代経済学の父とされるイギリスのアダム・スミスは、著書『国富論』(高哲男訳)で、人間が交換をするのは、「あるものを他のものと取引し、やり取りし、交換するという習性」があるからだとしか述べていません。交換とは、満足度を高めるという目的を果たすために行う、理性的な行動だという事実を理解していなかったのです。
もしもスミスがいうように、交換は確たる目的のない、単なる習性だとしたら、何が起こるでしょうか。
アダム・スミスの誤り
たとえば、いったん映画のチケットを交換した太郎と花子は、それで満足せず、お互いに受け取ったチケットをすぐ返し、果てしなく交換を続けることでしょう。チケットの交換を、一番見たい映画を見るという目的のためではなく、ただ交換そのものが楽しいからやるのであれば、そうなるはずです。
また、あなたがコンビニでお金を払い、おにぎりを買ったら、そのおにぎりをすぐさま返品し、お金を取り戻し、また同じおにぎりを買い、それを果てしなく繰り返すことでしょう。コンビニの店長も喜んで応じることでしょう。交換が空腹を満たしたり、収入を得たりという目的のための行動ではなく、単なる楽しみであれば、そうなるはずです。
さいわい、そんな異常な行動に人々が熱中しているところを、どのコンビニでも見かけたことはありません。交換は動物のような本能に基づく行動ではなく、人間が目的を果たすために行う、理性に基づく行動だからです。買ったおにぎりを、傷んでもいないのにすぐ返してしまったら、お腹を満たすという目的を果たすことはできません。
人が交換をするのは、それぞれの価値判断に基づき、満足感を高めるためだと明らかにしたのは、オーストリアの経済学者カール・メンガーでした。メンガーは、アダム・スミスの説をユーモアたっぷりに、こう皮肉っています。
もしスミスのいうとおりなら、同じ品種の麦の豊作に恵まれた隣同士の農家は、楽しみのためにそれを交換するだろう。他人から正気でないと思われる恐れがあるけれど、と。
交換は、人が幸せになるための重要な工夫です。しかも自分だけではなく、相手も幸せにする、すばらしい行為なのです。