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平成・危機の目撃者➏ 市東久が見た天安門事件(1989)

「有事のドル買い」の構図いまも

戦争や政治的な混乱の際に米国にマネーが向かう「有事のドル買い」は、1989(平成元)年の天安門事件まで定石だった。以後は米同時多発テロ事件や中国の台頭によって鳴りを潜めるが、市場では「基軸通貨であるドルの優位性は損なわれていない」との声が根強い。2018年にディーラー生活40周年を迎え、金利と外国為替の市場を縦横無尽に駆け続ける「生き字引」である市東久クレディ・スイス銀行東京支店長もそうみる一人だ。

市東久氏

しとう・ひさし  1976年に東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。78年から本店為替部の為替課でディーラーとしてのキャリアを開始。6年間のロンドン支店勤務中は、王立取引所で始まったロンドン国際金融先物取引所(LIFEE)の立会場の公認フロアトレーダーとして公開セリ売買方式での先物取引にも携わった。帰国後は国債トレーディング業務に従事し、ヘッジファンドを経て92年にクレディ・スイス・ファースト・ボストン銀行(現クレディ・スイス銀行)に移籍。金利裁定(アービトラージ)のディーラーとして短期市場ではその名を知らない人はいないほどの有名人で、今も現役で活躍。愛読書は新渡戸稲造の「武士道」

◆「円買い」には違和感

1989年6月の天安門事件で円相場は1ドル=142円前後から150円をうかがう水準まで下げた。天安門広場で中国の民主化運動が武力で鎮圧され、学生のデモ隊に戦車が突っ込んだ映像は世界に衝撃を与えた。この少し前、ドルは緩やかな下落基調で、数億ドルものドルの買い持ちを抱えていた自分は苦しかった。過去に積みあげた「含み益」は毎日100万ドル単位で目減りしていく。天安門の後のドル高は苦境を打破できた点でも鮮明に記憶に残っている。

今のところこれを最後に有事のドル買いは起きていないが、構図が変わったわけではない。例えばもし朝鮮半島が有事となったら円はどうなるだろうか。地理的に近い日本の円を持ちたくないとの空気が広がり、大きな金融機関や投資家を中心に円を売ってドルを買う判断に傾いてもおかしくないとみている。

経済評論家などが最近「有事の円買い」を乱発しているのを聞くと違和感を覚える。有事とは、戦争など安全保障上の重大な危機が起きたときに投資資金が逃避先を探し回るような状況を指す。例えばどこかの超大国の主要都市にミサイルが着弾するといった強烈なインパクトを持つ事象だ。

現在の円買いは国際分散運用を手掛ける投資家が円の減価に備える目的で、資産の一部を整理して円に戻しているにすぎない。巨大な対外債権国の日本にお金が回帰しやすい面はあっても、有事のリスク回避に伴って円が買われているわけではない。こうした点をきちんと理解したうえで解説者は有事の円買いという言葉を使っているのだろうか。とても不安になる。

◆流動性リスク対処、受け継がれぬ経験

風化のリスクは有事のドル買いに限らない。市場の混乱局面には経験豊富なベテランの存在が必要だが、足元では日銀の緩和長期化による市場縮小に見舞われた短期金融市場を中心に、ノウハウがまったく引き継がれず危機感を抱いている。具体的には流動性リスクへの対処だ。

1990年代後半の日本の金融危機を生き抜いたわれわれの世代は信用不安と流動性枯渇の恐ろしさが身にしみている。2008年のリーマン・ショック前後でもまずドルの手元資金を厚めにした。欧米金融機関がドルの調達に苦しみ、銀行間の取引金利が上がっていくとすぐにイメージできたからだ。

一方、大手米銀は為替フォワード(スワップ)を通じて日米金利差の拡大に賭ける取引を先行させた。ドルを直物で売って先物で買い戻すもので、これをするにはドル資金をきっちり確保しておかなければならないのにしていなかった。結果的にとんでもない高いコストでドルを借りるハメになり、大きな損失を出した。逆にドル保有者のこちらは1日で数百万ドルほどの利益を計上した日もある。経験の差が物を言った好例だろう。

日本の短期市場では資金が潤沢で金利のない世界が長期化し、人員を配置して大々的にディーリングをする必要がない環境が当たり前になっている。経験者や専門家がいなくても何とかなっているものの、それこそ有事で右も左もわからなくなるリスクと背中合わせだ。

日本が量的金融緩和政策を解除して3度目の利上げ(初回は2006年、2回目は07年2月)のタイミングを測っていた07年3月1日、日銀主催の短期金融市場フォーラムで外国銀行の代表として提言をした。当時の中曽宏金融市場局長(後に日銀副総裁、現大和総研理事長)とも日銀の出口政策に向けて意見を交わした。無担保コール翌日物金利が0.001%に張り付き、既に短期市場がしぼんでいたので、経験者を市場に呼び戻す重要性についても語り合った。

中曽氏とやりとりをしてからさらに10年以上がたった。日銀が異次元の緩和策に足を踏み入れるにいたり、事態は一層深刻になってきたようだ。

◆緩和が長期化、難しい時代に

日銀が異次元緩和に踏み切る前のことだ。日本の銀行は国内の融資ニーズが細って収益を上げられなくなるので、いずれ海外シフトしてドル建ての投融資を増やすと想定していた。ただ欧米の短期金融市場で簡単には直接ドルを借りられない地方銀行などがドル調達のため、手持ちの円を売ってドルを買おうとすると、ロンドン銀行間取引金利(LIBOR)比で0.80%前後も高い金利を払わなければならなかった。

ドル調達のコストが高すぎて運用しても収益を得られなくなったり、損失が出たりすれば投融資自体をやめざるを得なくなる。欧米銀が信用リスクを感じればドルを貸してくれなくなるかもしれない。ただでさえ米連邦準備理事会(FRB)が緩和からの「出口」に向かっているところだ。懸念は一昨年ぐらいから現実になり始めている。

数年前、前日銀総裁の白川方明氏と話をする機会があった。白川氏も自分と問題意識は一緒だった。貸出先を求めて海外へ打って出るとしても、資金調達やリスク管理のノウハウがなければうまくいかないだろうと心配していた。だが、経験はいっこうに蓄積されない。

1997年の金融危機の前の無担保コール翌日物金利は4%以上だった。2001年の量的緩和策の導入とともに0.001%になったとき、ものすごく小さな金利という意味で「ピーナツ」と海外の仲間にからかわれたのを覚えている。それがまさかマイナスになるとまでは当時は考えていなかった。

円金利単独での投資は基本的にはすることがない。フォワードで米金利の上下動に着目する戦略は引き続き有効だが、ドル資金の流動性の問題が出てくる。リスク管理の制約もきつい。

難しい時代になった。それでも有事にどう備えるべきかを常に意識しながら市場と向き合い続けたい。

=聞き手は日経QUICKニュース(NQN)菊池亜矢

=随時掲載


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