【QUICK解説委員長 木村貴】まもなく閉幕するパリ五輪は、開会式でその奇抜な演出が物議をかもした。なかでも注目を集めたのは、フランス革命で夫ルイ16世とともにギロチン(断頭台)で処刑された王妃マリー・アントワネットと思しき女性が、赤い衣装をまとい、自分の生首を手にして、メタルバンドの激しい演奏とともに登場した場面だろう。
Gojira’s #Olympics performance has caused lots of controversy, but frontman Joe Duplantier sets the record straight with Rolling Stone.
— Rolling Stone (@RollingStone) August 3, 2024
“It’s French history. Beheaded people, red wine, and blood all over the place — it’s romantic, it’s normal.”
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マリー・アントワネットは「赤字夫人」と呼ばれ、彼女が贅沢放題したせいで財政が破綻したかのようにいわれたが、国の財政規模からみれば、その浪費などたかが知れていた。革命勃発前年の1788年度の場合、王室および特権貴族用の出費は3600万リーブルで、全歳出の6%程度にすぎず、マリー・アントワネットが使ったのはさらにこの何分の一かでしかない(安達正勝『物語 フランス革命』)。
フランスの財政悪化の主因は戦争だった。17世紀後半から英国との間で第2次英仏百年戦争と呼ばれる断続的な戦いを繰り広げ、戦費調達に苦慮し、特権階級である聖職者と貴族への課税強化に踏み切る。このため特権階級から反発を買い、結局はフランス革命の引き金を引くことになった。
バブルの教訓生かせず
1789年7月14日、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が始まった。8月には平民出身の議員を中心に形成された国民議会が封建的特権の廃止を宣言し、「人権宣言」を採択した。この宣言には私有財産権の不可侵が盛り込まれた。市場経済発展の基礎となる重要な規定だ。
ところがその後、革命政府は迷走を始める。原因となったのは、皮肉なことに、革命で倒した王政が苦しんだのと同じ財政難だ。旧官職者に対する補償や、廃止された十分の一税の補償のために巨額の負債を新たに背負い込んだためだ。
革命政府は1789年12月、財政難を打開するために、アシニア(アッシニャ)という紙幣を発行することにした。だが反対意見も強かった。王政時代の18世紀前半、中央銀行総裁となったスコットランド生まれの財政家ジョン・ローが大量の紙幣を発行して「ミシシッピ・バブル」を生み、反動で恐慌を引き起こした苦い経験があったからだ。
革命政府は紙幣の信用力を高めるため、教会から没収した莫大な財産を担保にしたものの、実際には期待したような信用力は得られなかった。教会財産の没収が本当にできるのかどうかを、人々が疑問視したからだ。結局、政府はアシニアを強制通用力をもつ不換紙幣に切り換えざるをえなかった。
紙幣発行に賛成した側は、ジョン・ローの引き起こした破滅は過剰発行によるものであり、過剰発行は「専制主義の下でのみ可能」だと主張した。民主主義の下では過剰発行は起こらないというわけだ。それが正しくなかったことは、まもなく明らかになる。バブルの教訓を生かせなかった。
1792年、革命政権を打倒しようとする欧州の諸外国との間に戦争が起こった(革命戦争)。フランス人は愛国心をかき立てられ、革命の防衛のために全国各地から義勇兵がパリに集まった。南部マルセイユからの義勇兵たちの団歌「ラ・マルセイエーズ」はのちにフランス国歌となる。
だが戦争は愛国心だけではできない。革命政府は戦費捻出のために、アシニア紙幣を次々と発行した。その結果、物価が高騰し、紙幣の価値が低下した。1793年1月に実質価値は額面の60%に低下し、7月には30%を割るまでに下落した。庶民は物価高騰と食糧不足に苦しんだ。
物価統制で事態悪化
庶民生活の困難の中から、過激派(アンラジェ)と呼ばれる一団が生まれた。過激派は買い占め人、投機業者、財産家を目の敵にし、議会に迫って死刑を含む厳しい罰則で処罰すること、物価の統制、配給制の実施を求めた。
革命政府内で穏健派とされるジロンド派は、英国で経済学者アダム・スミスの影響を受けた者もおり、経済の自由を尊重し、過激派の主張や行動を批判した。
これに対し政府内で主導権を握るジャコバン派(山岳派)は、過激派の主張を一部取り入れる態度を示した。同派のリーダーで弁護士出身のロベスピエールは「商業の自由は必要である」としつつ、生活必需品である穀物は例外だと主張した(河野健二『フランス革命小史』)。
これは経済に対するロベスピエールの無知を示していると言わざるをえない。生活必需品だからこそ、政府が経済を統制して市場の働きを妨げれば、かえって問題を悪化させてしまう。
1793年、穀物を皮切りに、全商品の値段の上限を定める「最高価格令」が決定された。予想されたとおり、商品の売り惜しみを招き、かえって商品の出回りを妨げた。フランス中に闇市場が広がった。特にバター、卵、肉などは戸別訪問によって少量ずつ販売され、手に入れたのは主に富裕層だった。結局、富裕層が十分以上の食料品を手に入れ、貧乏人は飢えたままとなった。物価統制は、民衆を救うという狙いとは正反対の結果をもたらしたのである。
飢えに苦しむ民衆は富裕層への憎しみを募らせた。ロベスピエール率いる政府は暴発を恐れ、革命裁判所を舞台に、恐怖政治を展開していく。革命裁判所はあらゆる反革命的企てに関わる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告は一切なく、ここで下された判決は即、確定の最終判決だった。
恐怖政治では王妃マリー・アントワネットらを含む約1万6000人が処刑され、1794年7月、テルミドールのクーデターでやっと幕を下ろす。
同月、ロベスピエールはそれまで多数の人々を送り込んだ断頭台で、自身が処刑される。ロベスピエールとその一派がパリの通りを処刑台へと向かう途中、群衆は「薄汚い最高価格令が通るぞ!」と野次を飛ばしたという。その年の12月、最高価格令は正式に廃止された。
史上初のハイパーインフレ
恐怖政治は終わったが、穏健派が樹立した総裁政府もアシニア紙幣の増刷を続けた。このため、1795年にはハイパーインフレが起こった。アシニアの価値は額面の6%にまで低下した。これを歴史上最初のハイパーインフレだとする説もある(野口悠紀雄『マネーの魔術史』)。
政府は1796年3月にアシニアの廃止を決断し、ほとんどを焼却した。これ以上刷れないようにするため、造幣工場の印刷版も破壊した。アシニア紙幣がフランス経済に与えた痛手は大きかった。
近代民主国家の出発点であるフランス革命が、不換紙幣の大量発行による高インフレを引き起こした事実は重い。今の世界各国のお金もアシニアと同じ不換紙幣であり、政府の思うがままに増やしたり、国債を買い入れたりすることで、バブル経済や政府債務の膨張をもたらすリスクをはらむ。
実際、フランスでは7月の下院選挙で、財政拡大を訴える左派が最大勢力となり、政府債務の膨張によって欧州の金融市場に波乱が起きるリスクを高めている。もちろん財政難はフランスに限らず、日米をはじめ先進国経済を根幹から揺るがしかねない問題だ。
民主主義の理想を誇らしげにうたう政府が、かつての王室以上に浪費を重ね、庶民をインフレで苦しめている。巨額の債務が暴発すれば、世界経済を混乱に陥れかねない。マリー・アントワネットの亡霊がこのていたらくを目にしたら、高笑いすることだろう。