【QUICK解説委員長 木村貴】ノーベル賞の季節がやってきた。20世紀の初めにあたる1901年、スウェーデンの実業家アルフレッド・ノーベルの遺言に基づき第1回目が授与された。平和賞は2人の人物が共同受賞している。このうちスイスのアンリ・デュナンは赤十字を創設したことで有名だ。しかし、もう1人が誰で、何をした人かは、惜しいことにあまり知られていない。
その人の名をフレデリック・パシーという。フランスの経済学者だ。いったいなぜ、経済学者が平和賞を受賞したのだろう。キーワードは「自由貿易」だ。
古典的自由主義の信念
パシーは1822年にパリで生まれ、90年間の生涯をそこで過ごした。法律家になるよう教育を受け、22歳で官僚となったが、3年でやめ、経済学研究の道に入る。
パシーは英国の自由貿易を主導した政治家リチャード・コブデンを尊敬し、熱烈な自由貿易論者となる。一方で、ロシアとトルコとの間で起きたクリミア戦争(1853~56年)などへの考察を通して、平和運動に熱心に取り組むようになる。
パシーはコブデンと同じく、自由貿易は平和をもたらすという信念を抱いていた。「自由貿易は諸国を共通の事業のパートナーとして結びつけ、軍縮をもたらし、戦争の放棄につながると信じた」とノーベル賞公式サイトは述べる。
ノーベル平和センターの公式サイトは、自由貿易が平和をもたらすというパシーの考えを、次のようにさらに詳しく説明している。これはパシーやコブデンが信奉した古典的自由主義のオーソドックスな考えだ。
「パシーは独立国家間の自由貿易に大きな信頼を寄せていた。それが平和を促進すると考えたからだ。貿易が盛んになれば、政治家も企業経営者も平和の維持に関心を持つようになる。貿易相手国に対して戦争をしかけて自国の経済を破壊するのは愚かなことだ。自由貿易の下では、独立国家は軍事力や軍備増強に使う資金を減らすことができ、その結果、すべての国民に繁栄と国家間の平和をもたらすだろう」
パシーは研究室に閉じこもる学者ではなく、行動派だった。具体的活動としては、1867年のルクセンブルクの領有をめぐるプロイセンとフランスの争いにまつわるものがある。パシーは新聞社に手紙を書き、戦争を避けるための世論を作るように求めた。これにより、プロイセンとフランスの公職にある人々が決議やアピールという形で動き出し、英国のグラッドストーン首相が調停者として名乗りを上げ、ルクセンブルクは中立国として独立する。
この成功が、パシーを「国際恒久平和連盟」という組織づくりに向かわせた。この組織自体は1870~71年のプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)で失敗・分裂するが、普仏間の懸案であるアルザス・ロレーヌ地方がプロイセン領となって落ち着いたところで、パシーは「フランス平和友の会」もしくは「平和と自由国際同盟」として知られる組織を結成し、事務局長に就任する。78年に国際大会をパリで開くなどの活動を進め、92年にはスイスの平和運動家エリー・デュコマン(1902年ノーベル平和賞)とともに「常設国際平和局」をベルンに創設する。
パシーはさらに、英国の平和活動家ウィリアム・ランダル・クリーマー(1903年ノーベル平和賞)が提唱した、各国の国会議員からなる「列国議会同盟」という組織づくりにも中心となって活躍した。
ノーベル平和賞の計画が公になった際、すでにパシーはデュコマン、クリーマー、オーストリアの作家ベルタ・フォン・ズットナー(1905年ノーベル平和賞)らとともに第一候補と考えられていた。赤十字のデュナンとは現在では知名度が逆転しているが、当時は、長年にわたる平和運動の中心人物として国際的に知られていたのである(池上彰『ノーベル平和賞で世の中がわかる』)。
植民地政策に反対
一方でパシーは、1881年から89年まで母国フランスの下院議員を務めた。自由貿易の主義と合わないという理由でフランスの植民地政策に反対し、「劣った」国々の領土を征服することは不道徳だと主張した。またフランスは軍縮に取り組み、国際紛争で調停役を担うべきだと説いた。
19世紀が終わりに近づいた1896年、フランス・リヨンで講演し、次のような希望に満ちた言葉で締めくくった。
「多くの人々の勤勉な労働のおかげで、私たちの後継者たちにとって地球はもはや荒れ地ではなくなります。(略)国家間の正義という希望が、個人間の正義と同様に、単なる夢物語ではなかったことを、彼らは知ることになるでしょう。自分たちが幸運にも生きている新しい時代を祝福するとき、おそらく感謝の念を抱いて、19世紀の終わりを思い起こすでしょう。血と涙とともに生まれたけれども、平和と労働を尊ぶことで幕を閉じようとした、この世紀を」
「平和の使徒」として知られたパシーのノーベル平和賞受賞理由は、「国際平和会議、外交、仲裁に生涯を捧げた功績に対して」というものだった。受賞から11年後の1912年、パシーはこの世を去った。
保護貿易の国家信仰
残念ながら、パシーの楽観的な見通しに反し、その後の世界が平和でなかったことを、私たちは知っている。パシーの死から2年後に起こった第一次世界大戦やそれをさらに上回る規模の第二次世界大戦をはじめ、20世紀から21世紀にかけて多くの戦争が人々の生命・財産を奪い、今この瞬間も奪い続けている。
一方で、政治家や知識人の間で自由貿易を非難する声が目立つ。たとえば、パシーと同じフランス出身で歴史家のエマニュエル・トッド氏は「世界各地で起きている格差拡大の一因は行き過ぎた自由貿易政策にある」と主張し、自由貿易から保護貿易への移行を提言している。
自由貿易は民主主義を滅ぼす エマニュエル・トッドが訴える保護貿易(アーカイブ記事)https://t.co/63tGOEBrlW
— The Asahi Shimbun GLOBE+ (@asahi_globe) September 22, 2024
トッド氏は2019年の朝日新聞のインタビューで、「自由貿易の考え方にも利点はある」としつつ、「問題は、完全な自由貿易は国内で格差を拡大させることです」と主張する。米国社会で起こっている死亡率の増加、自殺率の上昇などは、自由貿易のせいだという。
最近のウクライナ紛争など国際情勢については鋭い洞察が光るトッド氏だが、経済問題に関する意見はいただけない。「格差」が貧困の意味だとすれば、自由貿易がその原因だという主張は事実に反する。
以前のコラムで紹介したように、200年前には世界人口の80%以上が極度の貧困の中で暮らしていたが、産業革命と自由貿易を背景に、生活水準は大きく改善した。今日、絶対的貧困の比率は9%未満だ。とりわけグローバル資本主義が拡大した1980年代以降、貧困削減のペースは大幅に加速している。
トッド氏は「自由貿易に賛成するか、反対するかではなく、どの程度の自由貿易なら社会が許容できるかという話なのです」と論じる。けれども、自由貿易を「どの程度」許容するかを誰が決めるのだろうか。トッド氏は主語を「社会」としているが、社会は決定機関ではない。実際には政府が決めることになるだろう。
しかし政府は、どの程度の自由貿易が適切なのか、知ることができるだろうか。そんなことは不可能である。経済環境や生産技術、消費者の好みなどは日々変化するのだから、どの商品をどこからどのくらい輸入すればよいか、どんなに優秀なエリート官僚でも判断できるはずはない。
トッド氏は「自由貿易というのは、宗教に近い」と批判するけれども、政府が貿易の適切な自由度を判断できるという思い上がった考えこそ、国家信仰という宗教に他ならない。貿易を完全に自由にすれば、何を買い、何を買わないかは消費者それぞれが判断する。
政府が貿易を制限すれば、国家間の経済対立につながり、戦争の危険が高まる。自由貿易だけで戦争を防げるわけではないが、世界各地で地政学リスクが高まる今こそ、自由貿易は平和を促すというパシーと古典的自由主義の教えをかみしめ、保護貿易の動きに目を光らせたい。