【QUICK解説委員長 木村貴】最近の日本人は「安心安全」が好きだ。日本人に限らず、人間は多かれ少なかれ、リスクを伴う自由よりも、安心安全を好む傾向があるらしい。しかし、その傾向が度を過ぎると、大きな代償を伴う。
大審問官がキリストを処刑しようとする理由
今月11日に生誕203年を迎えたロシアの作家、ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』といえば、世界文学の名作の一つで、最近では東大生に人気のある作品としても話題になっている。この作品の中で語られるエピソードで、物語の根幹ともいわれるのが「大審問官」の物語だ。難解だとか、キリスト教を知らないと理解できないとかいわれるが、必ずしもそうではないと思う。このエピソードの主題の一つは、現代風にいえば、自由と安心安全はどちらが大切かという問題だ。

ドストエフスキー(wikipedia.org)
「大審問官」は、カラマーゾフ家の次男イワンが創作した叙事詩だ。舞台は16世紀のスペイン。それまで何世紀もの間、キリストの再来を祈り続けてきた民衆の前に、キリストが姿を現す。キリストは群衆の前で、目の見えない老人の目をあけたり、死んだ子供を生き返らせたりといった奇跡を行う。群衆はどよめく。
そのとき、大審問官が通りかかる。異端者を発見・処刑する異端審問裁判の責任者だ。90歳近い老人である大審問官はキリストをとらえ、「なぜわれわれの邪魔をしにきた?」(原卓也訳)と問い詰める。そして「明日になったらお前を裁きにかけて、異端のもっとも悪質なものとして火あぶりにしてやる」と言い放つ。
キリスト教を深く信じるはずの大審問官が、なぜキリストを処刑しようとするのだろうか。それはキリストが重視した自由を民衆に与えるよりも、教会という権力が民衆の自由を縛り、管理するほうが、民衆自身のためになると考えているからだ。
大審問官はキリストに向かって、聖書の「荒れ野の誘惑」について持論を展開する。悪魔がキリストに「この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走り出すことだろう」と言ってそそのかしたのに対し、キリストが「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えた名高い場面だ。キリストは、服従がパンで買われたものなら、そこに自由はないと考えたのだ。
「だが、お前にはわかっているのか」と大審問官はキリストを問い詰める。「ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊(=悪魔)がお前に反乱を起こし、お前とたたかって、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、《この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!》と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ」
要するに大審問官によれば、しょせん人間とは、自由よりも物質的な満足(地上のパン)を求める生き物であって、その満足を与えてくれる者になら、たとえ悪魔であろうと喜んで服従するのだ。
悪魔がいない世界で、代わりを務めるのは権力者ということになる。大審問官は権力者を代表して、こう語る。「ああ、われわれがいなかったら、人間どもは決して、決して食にありつくことはできないだろう! 彼らが自由でありつづけるかぎり、いかなる科学もパンを与えることはできないだろう。だが、最後には、彼らがわれわれの足もとに自由をさしだして、《いっそ奴隷にしてください、でも食べものは与えてください》と言うことだろう」
食の入手という「安心安全」のためなら自ら進んで奴隷にもなるという、人間の情けなさを容赦なくえぐり出している。みごとだ。
しかし、自信満々に語る大審問官に対し、ひとつ疑問がある。権力者に任せておきさえすれば、必ず「安心安全」を確保できるのだろうか。
創意工夫と試行錯誤が文明を生む
たとえば、これまで何度も語られた、パンについて考えてみよう。パンが現在のように大衆の日常食になるまでには、長い旅路を経てきた。古代メソポタミアでは、小麦粉を水でこね、焼いただけのものを食べていた。これがパンの原型とされる。その後、古代エジプト、ギリシャ、ローマへと伝わるにつれ、パンづくりの技術は発達していった。
14~16世紀にかけてイタリアで始まったルネサンスの時代になって、庶民に家庭でパンを焼くことが許可されるようになった。それ以降、パンづくりは欧州各国へと広まっていく。米国では、昔からの伝統から解き放たれ、パンの生産の合理化・量産化が発展し、砂糖や油脂などをつかったリッチなパンも作られ始めた(山崎製パンのホームページより)。
今では驚くほど多種多様で味わい豊かなパンが手ごろな値段で手に入るようになり、食卓をにぎわせている。その発展に貢献したのは、おいしいパンを求めて自由に創意工夫を凝らした庶民や有名無名の発明家、起業家たちだ。権力者は何もしていない。せいぜい、戦争を起こし、その結果としてパンづくりが他の地域に伝わったくらいだ。
大審問官は、権力者がいなかったら人間は食にありつくことはできないと傲慢に語るけれども、事実は逆だ。多くの自由な人間がいなければ、パンは生まれず、権力者たちは食にありつくことはできない。
パンだけではない。冷蔵庫、洗濯機、エアコン、自動車、飛行機、パソコン、スマートフォン、ソーシャルメディア、ドローン、通信衛星……。あらゆる文明の利器は、民間の個人・企業の創意工夫と試行錯誤がなければ、生まれていない。その活動は自由がなければ不可能だ。
たしかに人間には、安心安全を求める性質もある。だが一方で、自由にリスクを取って豊かになりたいという精神や、自由に好みの製品・サービスを選びたいという心も持っている。人々のこうした自由な行動によって文明は繁栄し、権力者は多くの税金で豊かに暮らすことができるのだ。
安心安全を口実に自由を縛れば、やがて安心安全の土台そのものが揺らぐ。ベンジャミン・フランクリンの「安全を得るために自由を放棄する者は、そのどちらも得られないし、得るに値しない」という言葉のとおりだ。
権力者の判断は正しいのか?
しかし政府は、有権者の自由や自立を育むのではなく、安心安全をえさにして、歓心を買おうとする。
政府、経済対策決定へ 電気・ガス代補助、来年1月再開https://t.co/UqXpQHs24w
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) November 21, 2024
石破茂政権は先週決めた総合経済対策で、日本経済・地方経済の成長、物価高の克服とともに、「国民の安心・安全の確保」を3本柱の1つに掲げた。具体的には防衛力の強化や防災・減災対策、持続可能なエネルギー政策の推進などで、財政支出は6兆9000億円に達する。財政が危機状況にある中で、巨額の歳出を続けることが、本当に国民の安心安全につながるのか疑問だ。
米経済学者ケン・スクールランド氏が創作し、多くの国で翻訳されている物語『のんきなジョナサンの冒険』には、ドストエフスキーの小説をヒントにしたとみられる大審問官が登場する。大審問官は民衆に対し「価値や選択に屈する人間は、間違うかもしれないぞ」と脅す。恐れおののいて、どうすればいいか尋ねる民衆に、大審問官はこう答える。「わしを信じろ。わしがお前たちのために判断してやる」
だが大審問官の判断が正しいという保証はない。全知全能の神でない限り、人々の多様なニーズを知り、それに合った適切な対策を講じることなどできないからだ。むしろ誤るリスクが大きい。政府の経済対策も同様だ。税金を奪わず、お金の使い道は個人の判断に任せたほうがいい。
『カラマーゾフの兄弟』で、兄イワンの語るエピソードを黙って聞いていた弟アリョーシャは、民衆の幸福のためにその罪をかぶってやったという大審問官について、こう疑問を呈する。「人々の幸福のために何かの呪いを背負いこんだ、秘密の担い手とは、どういう人なんです? いつの世にそんな人たちがいました?」
聡明なアリョーシャは権力者の本性を見抜いている。いつの時代も権力者は民衆の幸福や保護を口実にして、自分の欲望を満たそうとするのだ。